XIII
大気を変える錬金術 : ハーバー、ボッシュと化学の世紀 ハーバー・ボッシュ法による空中窒素の固定という反応は、化学者ならば誰でも知っている反応である。この方法によって、今の地球人口を支える農業に必要な窒素肥料の、かなりの部分が供給されている。 この業績により、ハーバーは1918年に、ボッシュは1931年に、ノーベル化学賞を受賞している。こうしたことから、本書は、二人の成功譚であると思うかもしれない。しかし、本書はむしろ、戦争の時代の波、特にドイツの政治の状況、に振り回される二人の化学者の、悲しい物語である。 原題の副題は A Jewish Genius, a Doomed Tycoon, and the Scientific Discovery That Fed the World but Fueled the Rise of Hitler. 錬金術は、卑しい金属から、「金」を作り出す魔術である。神は世界のすべてを作った。その神の意志を理解し、再現する。それが、西洋科学の原点であるともいえる。こうして、金を作り出す技術を探索する過程で得られた、物質を変換する知識と技術が化学というサイエンスである。そして化学は、この世にあるものばかりではなく、この世に存在しないものも作ってきた。 ヒトを含め動物は、植物由来の炭素及び窒素から、その身体を作られている。20世紀初め、世界人口が増加しつつあるとき、将来の食料生産の隘路は、窒素肥料であると考えられた。一方、窒素は大気中に大量に存在する。しかし、その窒素ガスを植物が使えるような形(アンモニア)にするのは、根粒菌などの微生物によるしかなかった。そこで、大気からアンモニアを作る方法が追究され、ハーバー及びボッシュによる高圧化学によるアンモニア精製技術が花開いた。これによって、人類は、人口増による危険を回避することが出来た。しかし、本書から、この技術は、一方、第1次世界大戦におけるドイツの政治的事情によって工業化が推進され、さらに、その技術は、火薬の原料としてのチリ硝石の代用品を作り出す技術として、ドイツの戦争遂行に大きく貢献してしまうことになった事情が、理解される。この間のハーバーとボッシュの、その家族などを含めて、運命的な物語が、ここでは語られる。まさに、科学技術の社会化あるいは、科学のパラダイムシフトが、政治状況(世の中の状況)によって変わってくることが示されている。ハーバーは、さらに、ドイツに忠誠を誓うために、その化学を毒ガスの製造にまで活用することを考える。本書では、その後の、第2次大戦前夜のヒトラーの台頭してくるドイツの状況と二人の化学者の活動や心の動きまでもが描かれている(二人がユダヤ人であったことも、大きな要素となっている)。こうした科学者としての生き方をどう見るか、読み手に重いものを提起する。 本書は、アンモニアの物語でもある。著者は、それが必要とされた時代の背景から本書を書きおこし、最後に、大気から生み出されたアンモニアの環境中の挙動について、大きな課題を科学界に投げかけている。それは、CO2問題と同じことであるということであろう。 この世にないものを生み出す力を持った化学の課題は、この世に無い生物を生み出す力を持った生物学の課題につながる。こうした状況に対し、科学者は説明責任を求められていると同時に、自ら科学する立地点をそれぞれが明確にしなければいけないのであろう。それが科学者の集団としての、又、個人としての倫理なのであろう。 本書には、白川英樹博士による丁寧な解説が付されており、それ単独でも、極めて重要な問題を提起している。 じっくり読むに値する本である。 原題 THE ALCHEMY OF AIR A Jewish Genius, a Doomed Tycoon, and the Scientific Discovery That Fed the World but Fueled the Rise of Hitler. 学長 磯貝 彰 ※ 書評中の身分・表現は当時のものです。 |