XXVI
大切なことは言葉にならない(養老孟司の大言論 Ⅲ)

養老孟司著


本書は、大言論シリーズのパートⅢである。これまでの2冊と基本的には同じであり、分からないところも多い。特に、初めの方は宗教の話が多いが、これについては、私もよくわからないところが多い。しかし、読み続けると、時として、ああそうかというところが出てくる。
 
著者は著名な解剖学者であるが、「むしや」としても有名で、全3冊を通じて、解剖学の話より、虫の話の方が圧倒的に多い。虫屋の世界の人脈は、それが一見余技であるところから計り知れない広がりがある。本書でも随所に出てくる。私は虫屋ではないので、このあたりの面白さは実はよくわからない。しかし、著者が第1次産業にシンパシーを持っていることについては、農学をやってきた立場の人間としては、分かるような気がする。
 
著者の問題整理の根源的なものは、意識と感覚の二分法であり、前者に分類される人工的なものや、都市社会は、脳という意識から出ている一方、後者は、自然そのものや、実在的存在であるという(宗教やカミの概念もそうした文脈で整理されてはいる)。
 
「生物多様性と採算性」という話の中で、「第1次産業はなぜ採算が取れないのか。都市社会という意識の世界と、自然という無意識の世界との接点に位置するからである。つまり、第1次産業の現場は、採算性の通用する世界と、通用しない世界の界面に置かれている」という説明をしている。さらには、採算性という立場から、国家は採算性があるのかという提起もしている。 また、「自然に学ぶ」という話の中でも、自然や第1次産業について触れ、「自然に学ぶ」ということはどういうことかについて、たとえば、木の葉の配列を例にとり、「自然は常に解を示しているが、人は問題が分からないのだ」といっている。その意味で、「でも現代の教育は、その逆を教える。問題解決型の人を育てるという。問題が分かっていて答えを出す。もっぱらその訓練をする」といい、それは自然に学ぶことでは無いといっている。
 大学でも問題解決型の人を育てるという言い方をするが、自然の現象の中から問題を発見することの重要さを指摘されているような気もする。
 第1次産業についてはさらに、「世界に遅れてきた人」という視点を示し、こうした人達は博物学を好み、まず「ともかく世界を見回す。世界はどうなっているかのルールを知らないと生きていけない。」としている。一方、自分は世界に遅れてきたと思っていない人は、「世界はこうあって当然」「当然のかたちにしてやろう」と発想し、それは1次産業ではないオフィス産業の人の発想であるという。当然政治家もそうであろうという。ここに来て、著者が1次産業の側の人であることの理由が分かってくる。

そのほか、「科学と宗教と文明」「言葉が力を持つ社会」「日本人と宗教」など、考えさせられる話が盛りだくさんである(この本は、季刊誌「考える人」に連載されたものをまとめたもので、もともと、考えるためのものである)。著者の脳の中を覗きたいものではある。

巻末に活字中毒者であるという著者が薦める本のリストがある。150冊を超えるという。本選びの参考になるであろう。 本の虫という意味では、最近児玉清さんが亡くなられた。彼の週間ブックレビューは私の好きな番組の一つであった。冥福を祈りたい。
2011.5.26

学長 磯貝 彰

※ 書評中の身分・表現は当時のものです。